望まない妊娠・中絶と女性の人生について

ピルとのつきあい方(表紙)


「殺人者!」の罵りはいつ始まったのか?
むらの時代−−人口調整機関としてのむら/
こけし人形の話/
家族の時代−−子宝の思想/
「悲しみ」から堕胎罪へ/
個室文化/
個人の時代−−愛の思想/
孤立する女性/
胸を張って生きていこうよ!/

確実な避妊法について(別ページ)

中絶天国と揶揄される日本
人工妊娠中絶数の推移/
中絶がなぜ多いのか?/
望まない妊娠と女性の人生/
自分の人生を自分の意志で決めること/

未成年者の望まない妊娠と中絶の問題
社会的対応の必要性/
日本における望まない妊娠を防ぐ方策の現状/
女性の健康を優先する対応になっているか/
コンドームは若年者に適した避妊法か/
補論 法律の観点から/



「殺人者!」の罵りはいつ始まったのか?
 先進諸国には狂信的な中絶反対論者がいるものです。時に中絶の可否をめぐる論争は政治上の争点となったり、中絶女性に対するあからさまな嫌がらせをうんでいます。
 中絶反対論は宗教的教理の影響下にあるようにみえることがあります。たしかに、多くの宗教は中絶を悪としています。そして、宗教が中絶反対論のバックボーンとなっていることがあります。しかし、世界を見渡し、歴史をたどれば、中絶反対論と宗教的信仰はあまり関係ないことがわかります。
 日本でも欧米でも、近代になると申し合わせたように中絶が罪とされるようになってきます。そこに宗教的影響は認められません。宗教が変わったから、中絶が非合法化されたのではないのです。
 一方、同じ宗教の国を比較してみます。同じ宗教でも、中絶に対する考えは、国によってずいぶん違いがあります。
 中絶反対論を宗教から説明すると、本質が見えてきません。敬虔なクリスチャンであるフランス人の友人は、「私自信は中絶は罪であると思う。しかし、それは私の心の問題であって、他人の中絶に反対する理由にならない」と話しています。彼女の言葉は真の信仰と中絶反対論が無関係であることを示唆しているように思えます。
 社会が安定した生産力を持つようになると、いつの時代にも中絶はみられました。宗教のいかんにかかわらず、どこの社会でも中絶は行われてきました。また、法制のいかんにかかわらず、どこの国でも中絶は行われてきました。何が中絶観を規定してきたのか、考えてみることにしましょう。
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むらの時代−−人口調整機関としてのむら
 江戸時代の人口は、3千万人から3千5百万人で推移します。260年間で人口はわずかの増加しか示していません。これを農村の人口についてみれば、ほとんど変化していないのです。なぜ人口が増加しなかったのか?その理由は、ある意味で簡単です。穀物の生産量は、人口を規定します。農業生産性の向上による穀物の増産余力は、綿などの商品作物栽培に振り向けられました。つまり、穀物の生産量はほぼ一定していたわけです。このことから人口が一定に保たれました。
 しかし、以上の説明では、江戸時代の人口動向を本当に説明したことになりません。江戸時代には有効な避妊法は何一つありませんでした。避妊法がないのに人口が増えなかったのです。江戸時代の人々は、ひたすら禁欲に努めたのでしょうか。そんなことはありません。江戸時代には、今では考えられないほどの妊娠・出産があったのです。出産が多くても、乳幼児の死亡率が高かったので、人口は増加しなかった。これもひとつの説明です。確かに、乳幼児の死亡率は非常に高かったし、成人の寿命も短かいものでした。
 出生率と寿命のバランスで人口が保たれていたことは事実です。しかし、それだけでは、これほどの静止状態は作り出されません。もし、自然のバランスが人口の静止状態を作っていたとします。そうだとすると、飢饉や流行病による人口の落ち込みを回復させることは難しいことになります。ところが、現実には人口の一時的な落ち込みは、短い間に回復しています。このことは自然のバランスで人口が規定されていたわけではないことを示しています。
 以上のことから、穀物の生産量に釣り合うように人口が人為的に調整されていたと見ることができます。穀物の生産量に釣り合うように人口を調整するシステムが共同体でした。
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こけし人形の話
 東北地方の各地でこけし人形が売られています。現在では目のパッチリした可愛いこけし人形もあるようです。でも普通、こけし人形は目鼻立ちが極端に細く、おどろくほど個性に乏しいものです。今では多くの家の飾り棚にもあるこけし人形。その表情はどことなく寂しそうに見えませんか。
 このこけし人形は子どもの玩具だったのでしょうか。
 こけし人形は「子消し人形」から来ていると聞いたことがあります。江戸時代の日本では、堕胎・間引きが行われていました。村の人口が増えれば、生活が成り立っていきませんでした。現代からすれば、とんでもないことですが、人々が生きていくためには仕方のないことだったのです。もちろん、当時の人々にとってもそれは悲しいことでした。「七歳までは神の内」という考えがありました。7歳までの子どもは、神の世界と人の世界の間に生きているもので、神の世界に消えていくこともある存在と考えられました。7歳までに死んだ子どもは墓に入れない風習もありました。このように考えられずにはいられなかったのでしょう。
 子どもを失うことは、とりわけ女性にとって悲しいことであったに違いありません。なくした子どもの代わりに作られたのが、こけし人形だったのでしょう。こけし人形の悲しげな表情は、それを作った人の心を映しているように思えます。
 そのこけし人形は男たちが作ったのだと思います。こけし人形の表情は、寂しそうな表情ですが、安らかな表情でもあります。この安らかな表情は、男たちの女たちに対する思いやりの心の表れであったのでしょう。精一杯安らかな表情の人形を贈ることによって、女たちを慰めようとしたのではないでしょうか。
 こけし人形は子どもの玩具として作られたものではありません。しかし、それはきっと子どもたちの玩具としても使われたのではないかと思います。
 私はこけし人形を見ると、子どもたちに取り囲まれかわいがられているこけしと、母親が少し離れて見守っている光景を想像します。こけし人形となった子どもが、何も知らない姉妹たちにかわいがられること。このことは彼女たちにとって、うれしいことだったに違いありません。もし現実に私がその場にいたならば、彼女に「よかったね」と声をかけたい衝動に駆られるでしょう。
 いつの時代でも、子供を失うことは女性にとって悲しいことです。しかし、女性が責められることはありませんでした。悲しみの中にいる女性を責めたり非難することは、人間として恥ずべきことだと思います。こけし人形を見るとき、むらの人々の心の温かさを感じます。
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家族の時代−−子宝の思想
 堕胎間引き禁令は、江戸時代の早い時期から出されています。それには人口増加を善政の証と考える思想が関係しています。しかし、それは女性に対して出されたものではありません。当然のことでした。なぜなら、堕胎間引きを決定していたのは、女性ではなかったからです。それを決定していたのは、つきつめていえば共同体の共同意志でした。
 産む産まないの意志決定は、共同体の意志決定から家の意志決定に徐々に移っていきます。近代はその移行を制度化した時代ということができます。
 子どもの数を家で自由に決める。家が共同体から独立しているという意味で、このような家族を独立家族ということにします。独立家族は都市に生まれてきます。日本で武士は最も早く独立家族を形成した階級でした。ヨーロッパではブルジョワジーが独立家族を形成していました。近代市民社会とは、独立家族を形成していた人々が作った時代でした。
 独立家族にとって、子どもは家の繁栄に欠かせないものでした。子宝はまさに彼らの感覚でした。独立家族に属する人々から見れば、堕胎中絶は到底理解できない行為だったわけです。ここから堕胎はもとより、避妊さえも悪とされたのです。

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「悲しみ」から堕胎罪へ
 近代国家の成立にともない、一部の人々の価値観であった子宝思想は国民全体のものになっていきます。堕胎に対する見方もがらりと変化していきます。といっても、家の中の女性が非難されることになったわけではありません。家族の事情で堕胎が行われることはありました。その場合も、女性が意志決定したわけではありません。女性は依然として意志決定を受け入れる存在であり、悲しみがあっただけでした。
 近代における堕胎否定論は、女性に対する非難として立ち現れる点に特徴があります。上にも書きましたが、家族の事情で中絶が行われることはありました。数としてはそれが大部分を占めていました。しかし、非難のターゲットはそこに向けられたわけではありません。
 産業革命が進展する中で、独立家族に属さない人々が出てきます。その中には、若年女子労働者も含まれていました。彼女たちが妊娠し、中絶することに社会は寛容ではありませんでした。ヨーロッパで堕胎罪が作られるのは、若年女子労働者の「不道徳的行為」を取り締まるためでした。日本の堕胎罪の成立経緯はやや異なっていますが、その機能はヨーロッパのそれと変わるものではありませんでした。
 堕胎罪は、実質上女性の責任を厳しく問う点で、それまでの禁令とは性格を異にしていました。自分の意志で中絶する女性が現れたことと対応していると見ることができます。しかし、それだけではありません。女性が自らの意志で中絶することは、近代国家体制にとって許し難いことだったのです。近代国家は、独立家族による家族連合という性格を持っていました。性と生殖は一体であり、家族の中だけで許されることでした。家族外の性と生殖は、近代国家体制への反逆にほかならなかったのです。中絶する女性への非難は、家族連合としての国家の存在と不可分に結びついていました。
 この家族連合国家の中で生まれた避妊思想が、「家族計画」です。子どもが多いことが家の幸福であるという考えに対して、子どもが少ない方が家の幸福であるという考えもあり得ます。考えは逆のようで、家族の幸福のためにという点においては共通しています。家族計画は、性と生殖を家族という枠の中で考える「近代国家」の産物でした。
 
 

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個室文化
 欧米は個人主義の国だといわれます。たしかに、そう見えることもあります。しかし、欧米は個人主義の国である、という見方に疑問を抱くようになりました。そこに住む人々は、日本よりもずっと強い心の絆で結ばれているように思えてきたのです。欧米だけではありません。アジアの国でも、同じ事を感じます。心の絆が失われた社会、それが日本ではないかという思いにとりつかれるようになりました。
 心の絆。それを測る物差しはありません。私の主観に過ぎませんが、ちょっと読んでみて下さい。日本の大学生の大多数は個室に住んでいます。アメリカの大学生はどうでしょう。共同生活をしている大学生がたくさんいるのです。これにはびっくりしました。欧米は個室の文化だと思っていたのが、実は日本こそ個室の文化を作ってきたのではないかと思ったのです。
 日本の居住空間の個室化について調べてみると、1970年ころが境目になっているようです。それと時を同じくして、現代日本ができあがっていったように思えます。家族がバラバラに食事をとるようになります。大学では部が衰退しサークルが盛んになってきます。労働組合の組織率はみるみる低下していきます。部下の結婚の世話をする上司がいなくなります。集団のもつ息苦しさから解放されたともいえますが、同時に心の絆も失っていったのではないでしょうか。私より若い世代の方を見ていると、日本の個室文化化はますます進行しているように思えます。

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個人の時代−−愛の思想
 個室文化は、女性の生き方を大きく変えました。恋愛があこがれでなく、現実となります。戦前から1970年ころまで続く日本の近代社会では、結婚は「家」の出来事でした。個人的な事柄ではなかったのです。
 確かに、大正時代には「恋愛」という思想が紹介されています。しかし、「恋愛」の延長上に結婚があることはほとんどありませんでした。当時、今ではほとんど死語となっている「結婚適齢期」に違和感を感じる人は、少なかったようです。「適齢期」は恋愛の適齢期ではなく、子どもを産み育てるのに適した年齢でした。「適齢期」という社会規範が、女性の生き方を規定していました。
 個室文化によって、女性は自分の人生を自分の価値観で決める自由を得ることができました。「結婚適齢期」という言葉は、みるみる色あせていきました。恋愛に適齢期はないからです。
 恋愛という感情で結ばれたカップルが夫婦である。このような定義に違和感を感じられる方は、ほとんどいないでしょう。これが、この30年間の日本でおきた変化です。
 恋愛という感情で結ばれた関係にあるということと、婚姻届は必然的な結びつきを持ちません。愛し合う2人にとって、婚姻届というものは単なる形式の意味しか持たなくなります。そこで、婚姻届という形式を備えた夫婦と、それを備えていない「夫婦」が生まれてくることになります。同棲が一般化していったのは当然の帰結でした。
 恋愛という感情で結ばれた2人が「夫婦」であれば、婚姻届の有無はSEXに関係しないことになります。婚姻届を出した夫婦だからSEXがある、という考えは、恋愛感情で結ばれた2人だからSEXがあるに変化しました。性と生殖の分離も同時に進んだのです。
 このような夫婦観の変化は、恋愛という感情で結ばれた2人が異性同士であらねばならない必然性はない、という方向にも進んできています。 

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孤立する女性
 私たちの生きている時代は、家族の歴史の大きな変化のただ中にあります。長い歴史の中で、女性が自分の意志で生きていくことができた時代はありませんでした。私たちは、今その時代を生きようとしています。
 この時代の変化に、社会も、私たち自身もとまどっています。私たちは、仕事もし、恋もし、子育てもすることができる時代に生きています。しかし、そのための条件整備は十分に進んでいません。結果として、かつての女性が経験したことのない、長い未婚時代を過ごすことも多くなっていますし、新たな悩みを抱え込むことになりました。
 長い未婚時代があり、この間に恋もし、性関係も持つ。これは逆戻りさせることのできない歴史の流れです。この歴史の変化についていけない人々が、現代の中絶反対論者です。アメリカの中絶反対論者の心性について分析したマイヤーは、彼らが古い家族的秩序に強いノスタルジアを感じていることを明らかにしました。彼らは、婚前の性交渉や女性が自らの意志で中絶を決意することが許せないのです。まさに彼らは近代の中絶反対論者の末裔です。
 ただ、古典的中絶反対論者と現代の中絶反対論者の間には、大きな違いがあります。現代の中絶反対論者は、ヒューマニスト、モラリストとして立ち現れます。それは中絶女性の心を揺さぶるものでした。彼女たち自身もヒューマニスト、モラリストであるのに、中絶という選択をしてしまった。ここに彼女たちのジレンマがあります。
 日本の個室文化が一般のものとなった1970年ころから、水子供養が盛んになってきます。中絶の絶対数は減少しているのに、水子供養が盛んになっていったのです。この現象については、さまざまな議論が行われています。それは中絶の意志決定を女性自身が行うようになった結果だと、私は思います。うりちゃんのおうち*中絶体験投稿*は、現代女性史の貴重な資料です。この手記には、自ら決めたことである故に悔やみ苦悩する女性の心がつづられています。そして、そこに自由であるゆえに孤独な現代女性の姿を見て取ることができるように思います。
 自由は、ときに孤独であることを意味します。孤独な中で厳しい自己決定を行っていくこと、これが自由の意味なのです。しかし、私たちはまだそれに不慣れです。突然の妊娠で猶予のない自己決定を迫られると、とまどってしまいます。妊娠だけではありません。それは現代の子育てにもいえることです。一人で悩む女性がたくさんいます。
 私は思うことがあります。現代の私たちの自由は、個室の自由ではないかと。個室では誰からも干渉されません。その意味で自由です。しかし、その自由は必ずしも自立を意味しません。人々が心の絆でつながりあって、なおかつ自由である事はできないのでしょうか。私たちは、豊かな自由を実現していく歴史的使命を背負っているように感じます。

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胸を張って生きていこうよ!
 近代社会を開いた市民革命は、自由と平等の理念を掲げていました。自由で独立した個人が作る社会が近代社会のはずでした。しかし、その社会を構成する単位はほんとうに個人であったのでしょうか?いえ、違います。そのように考えるのは幻想に過ぎません。事実は個人の連合というよりも、家の連合という方が当たっています。家を代表する男性には選挙権が与えられました。女性に選挙権が与えられたわけではありません。女性の選挙権は20世紀の出来事です。
 近代日本には、封建的な家制度が残され、近代社会の体をなさなかったという見方があります。たしかに、それはその通りです。しかし、それはあまりに理想化された近代、理想化された欧米からみた見方でもあります。現実の欧米近代社会も日本の近代社会も、本質的には家連合でした。
 市民革命の理念は、20世紀に実現の途についたと考えています。私たちの生きている今という時代は、まさにその長い道程の途上にあります。
 人が互いに尊重しあう社会。そのような社会を実現していくことは、実は容易いことではありません。その困難さの根底に、個の独立の難しさがあります。それぞれの個が確固とした独立した人格である必要があります。それぞれが確固とした自分、自分の人生を持つ、このことなしに互いに尊重しあえる社会は実現しません。
 私たちは、自分の人生を自分で決定する時代に生きています。当たり前のことと思われるかもしれませんが、これはとてもすごいことなのです。自分で決定したことについて自分で責任をとります。自分で決定したことに誰からも干渉を受けません。このような生き方に、私たちはまだ不慣れです。とまどうこともあるでしょう。私たちの中に心の壁があるからです。この壁をひとつひとつ乗り越えていきましょう。
 私たちは、自分で決定する自由をもっともっと持つようになるでしょう。それはそれだけ責任も重くなるということです。責任の持てる自分となるように自己を高めていくことが、求められているのです。私たち一人ひとりの小さな一歩が、社会を大きく変えていきます。
 さあ、自信を持って私たちの人生を生きていきましょう。

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中絶天国と揶揄される日本
 鰯は数万個の卵を産みます。しかし、産まれる卵の数に関係なく、その中で成魚に育つのは2匹だけです。魚だけではありません。全ての生物は数多くの子どもを産みますが、いずれも基本的には2匹だけが生殖年齢に達します。このようにして、自然界のバランスが保たれています。
 人間も生物界の一員です。何人子どもを産もうとも、2人しか成人に達しないという自然の掟に従ってきました。つまり、10人子どもを産んでも8人は死んでいたのです。女性にとって愛児の死ほど悲しいことはありません。20世紀の医学は、女性の悲しみの歴史にほぼ終止符を打つことのできる水準に進歩しました。一人の女性が2〜3人の子どもを産めば、人口が維持されることになりました。たくさんの子どもを産み、たくさんの悲しい死を経験せずにすむようになったのです。
 これは人類が達成することのできた大きな進歩です。2〜3人の子どもを産み、その子どもの成長をみながら人生を送る。このような幸せを持つことができるのは、長い人類の歴史の中で現代の女性だけです。つまり、子どもの死といつも向き合ってきた女の悲しい歴史から、やっと自由になれる時を迎えたのです。
 それを可能にしたのは、(小児)医学と避妊技術の進歩でした。両者は車の両輪の関係にあります。小児医学の進歩がなければ、避妊技術の進歩もなかったでしょう。子供を失う悲しみから女性を救うテクノロジー、これが避妊の本質です。避妊を単に享楽の道具と考えるのは、間違いです。
 医学と避妊技術の進歩は、女性の悲しみの歴史に終止符を打つはずでした。しかし、現実には女性の悲しみは続いています。子どもの死としてではなく、胎児の死として。女性にとって、産まれた子どもも体内の子どもも、同じ子どもです。体内の子供を失う悲しみは、産まれた子供を失う悲しみと変わりません。
 中絶を数字で示すことは、その数字がいかに正確でもいかに大きくても、真実を語っていないような気がします。数字の1つひとつに心と体の痛みが詰まっています。流された涙の重さを考えるとき、女性の幸せを考える上で避妊問題が言葉で言い尽くせない重要性を持っているように思います。(中絶を取り扱ったサイトへのリンクを作ってみました。女性にも男性にも、一つひとつの中絶の重さを知ってほしいと思います。こちらからどうぞ) 
 日本の中絶件数は減少傾向をたどっていますが、他の先進諸国と較べるとはるかに高い水準にあります。この事実は世界中で知られています。私はとても恥ずかしいことだと思います。さまざまなテクノロジーが人類を幸福にしてきました。現代日本人はもっとも先進テクノロジーを取り入れた生活をしているといってもいいでしょう。携帯電話もテレビもパソコンも先進テクノロジーの成果であり、私たちはそれを大いに利用しています。しかし、人類がやっと克服した女性の悲しみからの解放という問題を放置して、先進テクノロジーの国と自負しているのが日本ではないでしょうか。そのような日本が中絶天国と揶揄されているような気がします。

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人工妊娠中絶数の推移
人工妊娠中絶絶対数統計

 1997年の人工妊娠中絶件数は337,799件で、最近は横ばい傾向で推移しています。1970年の中絶件数732,033件と較べると半減していますが、これには人口変動の効果も含まれています。

出典:『平成9年母体保護統計報告 』厚生省  厚生労働省HPへリンク


 中絶者の年齢別統計
 1997年の妊娠中絶を年齢別に見ると、20歳〜24歳が80,252件で最も多く、以下25歳〜30歳、30歳〜35歳の年齢層が続いています。20歳未満の件数は30,984件で絶対数としては多くありませんが、年々増加傾向にあります。

出典:『平成9年母体保護統計報告 』厚生省  厚生労働省HPへリンク


出典:『平成9年母体保護統計報告 』厚生省  厚生労働省HPへリンク

 人工中絶比
 人工中絶件数を分子に、女性人口(全人口の2分の1と推定)を分母にして人工中絶比を算出すると、1996年には0.54パーセントでした。人工中絶比はアメリカやスエーデンでは日本より高く、ドイツやオランダでは日本よりかなり低くなっています(厳密には人口構成による補正が必要)。
 人工中絶比の分母をを生殖年齢人口に置き換えると1パーセント程度となります。生殖年齢を40年と見積もると、日本の女性が生涯に人工中絶を1度経験する確率は最大40パーセントとなります(実際は複数回経験する人もいるのでもっと低くなります)。
以上、『平成9年母体保護統計報告』(厚生省大臣官房統計情報部人口動態統計課)を参照。

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中絶がなぜ多いのか?
テクニカルな問題
教育の問題
避妊してとなぜいえないのか
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望まない妊娠と女性の人生
出来ちゃった結婚
心理的外傷としての中絶
妊娠育児と仕事
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自分の人生を自分の意志で決めること
少子化は女性の責任?
シングルマザー
ヨーロッパの少子化対策
産む産まないは私が決めます
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■■未成年者の望まない妊娠と中絶の問題(2000.09.15加筆)
 未成年者の中絶増加は、世界的な問題です。日本でも、未成年者の中絶は増加傾向にあります。
 日本では、未成年者の中絶が増加しているという事実そのものが、あまり知られていません。報道されることがあっても、「性の乱れ」というニュアンスで捉えられることが多いように思います。日本では未成年者の中絶の増加は個人の問題として捉えられ、社会的な対応がほとんどとられていません。
 妊娠中絶が女性の心身に悪影響を及ぼすことは、年齢にかかわりありません。しかし、若年者の妊娠中絶がより深刻な影響を残すことがあることも、また事実です。
 特に、若年者にあっては中期中絶の割合が高いことには、注意を払う必要があります。12週から21週までの中絶を中期中絶といいます。中期中絶では、初期中絶と手術方法も異なってきます。中期中絶は全中絶件数の5.6%程度ですが、未成年者に限れば高い比率になっています。さらに現実には、中期を過ぎた中絶も行われています。
 未成年者の中絶には母体への悪影響が大きい中期中絶が多いのはなぜでしょう。若年者の場合、妊娠に気づくのが遅れる、中絶を決断するまでに時間がかかる、などの事情が関係しているようです。
 未成年者の望まない妊娠をいかに減らしていくか、中期中絶の比率をいかに下げていくかは、重要な課題といえます。

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社会的対応の必要性
 未成年者の中絶増加に対して、先進各国では対策がとられてきました。ヨーロッパ諸国では、各地に避妊について気軽に相談できる施設が作られ、避妊についての啓発事業を行うとともに、未成年者に対して避妊具を無償または格安で提供したりしています。
 ヨーロッパ諸国で未成年者の中絶増加が、社会的問題として捉えられているのはなぜでしょう。ひとつには宗教的な背景もあります。しかし、それだけではありません。
 望まない妊娠と中絶を減らしていくことは、個人の問題であると私は考えていました。これは社会的問題なのだという考えが、理解できなかったのです。ある時、「あなたの国では、食中毒患者と中絶件数はそれぞれ何人ですか。また、食中毒患者と中絶件数を減らすために、どれほどの社会的コストを払っていますか」と聞かれました。この質問を聞いて、なるほどと思ったのです。
 日本における食中毒患者は年間年間5万人程度です。食中毒を減らすために、国・都道府県・市町村は莫大な社会的コストを払っています。食べ物については、たんに作る人や食べる人が注意すればよい個人的問題とは考えられていません。社会的問題と捉えられているわけです。
 一方、中絶についてはどうでしょう。日本における中絶件数は年間33万件程度です(実際はもっと多いと言われています)。食中毒の6倍以上の数字です。しかし、これを減らすための社会的努力はほとんど行われていません。
 安全な水道水を供給して市民の健康を守ることが社会的責任であると同様に、中絶のダメージから女性を守ることも社会的責任といえるでしょう。 
 健康維持についての平等な権利を保障していく仕組みが、健康保険制度です。社会的弱者が早期治療の機会を逃すことのないように、健康保険制度によって社会的に支えています。健康保険制度は、経済的理由で病院に行くのが遅れるということのないようにしているのです。中絶について言えば、若い女性はまさに社会的弱者です。若年者の中絶手術が遅れがちになることとと、経済的弱者が病院に行くのが遅れがちになること。後者について社会的に救済するシステムが必要ならば、前者についても同様ではないでしょうか。

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日本における望まない妊娠を防ぐ方策の現状
 
 若年者の望まない妊娠を防ぐ方策はきわめて乏しいといわねばなりません。ひととおりの性教育は行われるようになりましたが、とても十分といえるものではありません。たとえば、コンドームの正しい装着法や使用法を教えられたことがない、という人の方が多いと思います。また、危険日の計算法を知らないという人の方が多いのです。正しい知識を普及していく必要があります。
 次に避妊手段へのアクセスの問題です。お店でコンドームを買うことに恥ずかしさを感じるのは、女性だけではありません。特に未成年の男性では、「勇気がいる」という方も少なくありません。一時、「子どもがお菓子の自販機と間違えて困る」というわけのわからない理由で撤去を余儀なくされていたコンドームの自販機。最近になって復活してきましたが、地域によってはほとんどありません。コンドームを買うことの恥ずかしさのために、無避妊で性交渉をもってしまう。その結果妊娠してしまうというケースは、他の年代ではほとんど見られない十代の特色です。上で述べたヨーロッパ諸国の施設では、未成年者にコンドームを無償で配布していることがあります(自由に持って帰れる)。
 避妊手段そのものについても問題があります。コンドームによる避妊失敗は、若年者において際だって高くなっています(データ )。性的経験の乏しい男女にとって、コンドームによる避妊は適したものとはいえないのです。ピルはむしろ若年者にこそ適した避妊法ということができます。事実、欧米諸国ではピルによる避妊は若年者の間で盛んです。ヨーロッパ諸国で相談にきた若いカップルに勧められるのは、コンドームではなくピルでしょう。
 日本でのピル使用者は、20代後半以後の女性に偏っており、欧米とは好対照をなしています。これは若年層がピルにアクセスし難いようにしているからにほかなりません。年齢に関係なく濃密な検査を課し、その負担を本人に求めるのであれば、若い女性がピルを敬遠するのは当然のことといえます。

(付け足し)
 性教育の内容や方法は、成人と未成年者で、男性と女性で同じであるべきでしょうか。発達段階は考慮するが、基本的には同じであるべきだというのが、大方の御意見ではないかと思います。
 私はこの点、やや疑問に思っています。共通性が重視されれば、いきおい一般的な知識が教えられることになります。日本の性教育は、共通性を重視するために、一般的な知識しか教えないことになっていないでしょうか。
 避妊法の種類については、日本の学校教育で教えられていると思います。しかし、コンドームの装着法は何故教えないのでしょうか。男性にとって避妊法の種類よりも、コンドームの装着法の方が大切な情報ではないかと私には思えます。性教育の内容には、共通性とともに個別性という視点が必要なように思います。
 性教育の方法についても同じ事が言えます。「習った記憶はあるけど、その時は興味がなかった」といわれる方が多くいます。無理からぬ事だと思うのです。だれでも現実の必要に迫られてなければ、教えられた知識は身に付かないでしょう。現実の必要に迫られたときに学習の機会が準備されていることは、若い人たちにとって非常に重要なことのように思います。上で述べたヨーロッパ諸国の施設は、必要がある若者たちに性教育をする場になっています。このような性教育の方法は、若者に特に適した方法のように思えます。「日本では、助産婦が主として産後の女性に個別の避妊指導を行っています」とうつむき加減に説明するのは、実に恥ずかしいことです。個別の避妊指導を本当に必要としているのは、むしろ若い人たちなのにどうしてそうなっていないのか。二十歳前後で結婚し、出産し、それから避妊を考えていた昔の日本が、そのまま残っているのではないでしょうか。
 日本の中絶の多さは、社会的サポート体制の不備に一因があり、特に若年層に対するサポートが決定的に立ち後れているように思われます。 

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女性の健康を優先する対応になっているか(2000.09.14加筆修正)
 
 日本は「中絶王国」と揶揄される状況になっています。しかし、中絶がいわば日常化しているこの日本において、中絶に関する情報は、驚くほど知られていません。中絶に関する情報は、多くを口コミ情報に頼っている現実があります。心当たりのある性交渉があって生理が遅れているとします。「性交渉から3週間経てば、妊娠検査薬で調べることができるようになります。ぜひ調べてみて下さい。」。これはBBSで繰り返される答えです。学校でぜひ教えて欲しい情報なのですが、教えられていないのでしょう。おそらく、妊娠検査薬の存在さえ、教えられていないのではないでしょうか。人間は誰でも、不安から逃げたい心理が働きます。1日延ばし1日延ばしにする方がいても、不思議ではないでしょう。「妊娠の確認」「産む産まないの決断」「中絶という選択肢」のそれぞれについて、十分な情報とサポートがあれば女性の健康にとって有益です。しかし、現実はそうなっていません。情報とサポートの機会がより少ない若い世代で中期中絶が多くなっているのは、いわば当然の結果なのです。
 産むことのできない状況で妊娠した未成年の女性がここにいるとします。倫理的な問題を議論する前に、いかに彼女をサポートするかがただひとつの必要なことです。多くの場合、彼女は多くの困難に直面しています。その困難のひとつがプライバシーの問題です。望まない妊娠をしたこと、そして中絶を決意したこと、このことは誰にとっても大きなプライバシーです。成人の場合、このプライバシーは誰からも干渉を受けずに済みます。ところが、未成年の女性の場合、このプライバシーを保護者に話さなければならないと言うハードルが待ちかまえています。保護者の承諾書というハードルです。このハードルは若い女性にとって非常に大きなハードルであることがあります。このハードルのために、中絶の時期が遅れてしまうことさえあるのです。
 このハードルは、もっともサポートされるべき未成年の女性の前に立ちはだかっています。なぜ、このハードルはあるのでしょう。 
 民法の規定により女性は16歳になれば、結婚できます。結婚すれば出産ということもあるでしょう。未成年の女性が出産するとき、「保護者の承諾書を持ってくるように」といわれることは、あるでしょうか。もしそういうことがあったら、「何で保護者なの?」という事になるでしょう。なのに、未成年の女性が中絶しようとすると、なぜ「保護者の承諾書」を求められるのでしょうか。 
 母体保護法には、未成年者に関する規定は1カ所だけです。すなわち、不妊手術について規定した第三条に、未成年者に対する不妊手術の禁止を定めているだけなのです。  
人工妊娠中絶について定めた第14条を見てみましょう。 

第十四条 
第一項  都道府県の区域を単位として設立された社団法人たる医師会の指定する医師(以下「指定医師」という。)は、次の各号の一に該当する者に対して、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる。 
第一号  妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの 
第二号  暴行若しくは脅迫によつて又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの 
第二項  前項の同意は、配偶者が知れないとき若しくはその意思を表示することができないとき又は妊娠後に配偶者がなくなつたときには本人の同意だけで足りる。 

どこにも未成年者の規定はありません。ここにいう配偶者とは、「届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様な事情にある者を含む。」事になっています。母性保護法は、妊娠中絶に際して当事者男女の意志を尊重することになっているのです。
 母体保護法の精神に反して、「保護者の同意書」の提出が求められているのはなぜでしょう。その根拠は、未成年者が民法上の契約当事者能力を有していないからです。保護者からの責任追及を回避するために、保護者の念書が取られているのです。いわば病院側の都合で取られているのか保護者の念書です。このために、未成年者のプライバシーが認められず、そのことが場合によっては母胎への負担を増加させています。最もサポートされてしかるべき若年女性が、かえって最も高いハードルを突きつけられているのが現実です。
 この問題について、「私の勤務する病院では、『保護者の署名捺印を提出して下さい』といわずに、ケースバイケースで『保護者の名前を書いて印鑑を押して下さい』と申し上げています」という例もあるようです。女性の健康を優先する対応が広がることを願っています。

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コンドームは若年者に適した避妊法か
 
 中絶を減らす最大の対策は、確実な避妊にあります。ところが、若年者ほど避妊失敗率が高いという問題があります。若年者の知識や経験の乏しさが、避妊失敗率の高さにつながっています。また、女性の排卵時期の不安定さや男性の射精コントロールの未熟さなど、若年者の生理的要因も関係しています。
 欧州諸国では一般的な避妊情報の提供では、若年者の望まない妊娠を少なくできないという認識が形成されてきました。そこで若年者に対象を特化した避妊情報の提供が考慮されるようになりました。高齢者に対する行政サービスがあるのと同様に、若年者に対する行政サービスが提供されても不思議なことではありません。
 欧州諸国では若年者の望まない妊娠を減らすさまざまな努力が行われ、それを行政がバックアップしてきました。世論の支持もこれをバックアップしました。このような動きの中で、若年層の避妊法としてのピルが普及していきました。若年層におけるコンドームでの避妊失敗率の高さが、直視された結果と言うことができます。
 ひるがえって、日本ではどうでしょうか。ピルに対しては根強い偏見があります。この偏見を味方にして、政府はピルへのアクセスを非常に難しいものにしました。若い世代にピルが普及する現実的条件は全くと言っていいほどありません。現実的条件がない中では、いきおいピル以外の避妊法が若年者に推奨されることになります。その結果、ピル以外の避妊法が若年者に適した避妊法であるという認識も生じてきます。極端な場合には、低用量ピルは18歳未満に禁忌であるとし、「某産婦人科医院では、中学生・高校生にも避妊目的で「低用量ピル」を処方する方針だという事です。この場合「18歳未満の女性との性行為・性類似行為を禁じた法律」「各自治体の条例」に抵触する可能性があります。」などと公言しているケースさえあります。18歳未満禁止は成人映画の発想かなと反論する気さえ起こりませんが、ほんとうに悲しいことです。なお、ピルと服用年齢の問題はこちらを参照して下さい。

 ピルの危険を言い、あるいはピルの服用を制限する提案?には、何のクレームも付きません。そのことによって、誰も健康被害を受けることはないと考えられるからでしょう。ところが、現実には、ピルの使用が実質的に制限される中で多くの妊娠中絶が行われています。このことの方が、よほど大きな健康被害を生んでいるのですが、誰も目を向けようとはしません。「悪者」のピルを擁護すると、淫行条例違反など見当違いな批判まで含めて、あれやこれやの逆風にさらされてしまいます。しかし、日本の異常な現実は必ず変わっていくものと思います。日本の女性、とりわけ若い女性が異常な確率で重い十字架を押しつけられています。このことは、顕在化しない世界の出来事なので、すぐには変わらないかもしれません。今の日本は大きな変化の小さな変化の始まりに位置しているのだと思います。歴史は流される女性の涙の量を減らす歴史であった、と確信しています。

補論 法律の観点から(2001.8.28追記)
 未成年者の人工妊娠中絶に際して、法律で親権者の同意を絶対的な要件とすることは、憲法第13条に違反します(平成2年度司法試験問題)。もちろん、そのような法律はありません。
 少なくとも満15才以上の未成年者は、行為能力を持つとするのが法曹界の一般的な考え方です。このことについては、「医事法制 未成年者における妊娠中絶と同意」『日本医事新報』No.4023 (2001年年6月2日)に詳しく解説されています。少なくとも満15才以上の未成年者に対して、親の同意書を取る合理的な根拠はないのです。
 同様の考えは、日本医師会の「診療情報提供に関するガイドライン検討委員会」の示した「指針」にも示されています。「指針」は「満15才以上の未成年者については、疾病の内容によっては本人のみの請求を認めることができる」としており、親であっても情報を開示しないことがあるとしています。「指針の実施にあたって留意すべき点」には以下のように示しています。
 (2)号の但書きの満15才以上の未成年者については、妊娠中絶等の事案で未成年者と親権者とが対立する場合が生じ、その場合の解決法如何が、諸外国でも問題になっている。欧米では、このような場合には、未成年者の意思を尊重すべきだとの意見が大勢であり、この指針も一応それにしたがった。なお、満15才は、代諾養子を定めた民法第797条、遺言能力を定めた民法第961条等が、満15才以上の未成年者に対して、これらについて行為能力を認めたことを参酌して選んだ年齢である。ちなみに、後者から、満15才以上の未成年者も、移植のための臓器提供の意思を表明できるとの解釈が導かれている(平成9年10月8日健医発第1329号「臓器の移植に関する法律」の運用に関する指針−ガイドライン−参照)。
 親の同意書なしに中絶手術が行われても、病院が親から訴えられることはありません(親は病院を訴えることはできない)。それにもかかわらず、さも法的要請であるかのごとく「親の同意書が必要です」という病院があるようです。しかし、それは病院側の都合に過ぎないのであって、決して法的要請に基づくものではありません。世の中には、病院側の都合の代弁者がいて、私文書偽造罪までちらつかせながら「親の同意書」の必要性を強調しています。もちろん、親のサポートが必要であったり、問題解決に役立つことも少なくありません。しかし、親が知ることにより問題がこじれたり、本人が大きな心の傷を受けたりすることもたくさんあります。この問題は、法・制度・慣行による一律的な規制に馴染まない問題です。

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ピルとのつきあい方(表紙)

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